海道
かいどう
名詞頻度ランク #44262 · 青空 218 例
標準
sea route
文例 · 用例
父が十三の時父の父が或失敗をして逃げ出して行つたために父はその時東海道を一人で東京迄出た。
— 中原中也 『その頃の生活』 青空文庫
何という題であったか忘れたが、自分が九歳の頃東海道を人力車で西下したときに、自分の乗っていた車の車夫が檜笠を冠っていて、その影が地上に印しながら走って行くのを椎茸のようだと感じたと見えてその車夫を椎茸と命名したという話を書いた。
— 寺田寅彦 『明治三十二年頃』 青空文庫
九つの歳父母に従うて東海道を下りし時こゝの水楼に※魚の塩焼の骨と肉とが面白く離るゝを面白がりし事など思い出してはこの頃の吾なつかしく、父母の老い給いぬる今悲しかり。
— 寺田寅彦 『東上記』 青空文庫
勿論その頃はまだ東海道鉄道は全通しておらず、どうしても横浜から神戸まで船に乗らねばならぬ。
— 寺田寅彦 『車』 青空文庫
私たちの、これから溯ろうという、東俣の谷と、西俣の谷とは、下流三里のところで一つになり、初めて田代川――馬子唄で名の高い、海道一の大井川の上流――となって、西南の方向へと、強い傾斜を走って行くのである。
— 小島烏水 『白峰山脈縦断記』 青空文庫
そのころは既に広重の出世作、『東海道五十三次』(保永堂板)は完成され、葛飾北斎の『富嶽三十六景』が、絵草紙屋の店頭に人目を驚かしていたのであるが、その地図にある定火消屋敷で、広重が生れ、西の丸のお膝下で、名城と名山の感化を受けていたのだと思うと、晩年に富士三十六景の集作があったのも、偶然でない。
— 小島烏水 『不尽の高根』 青空文庫
日本の歴史の恐怖時代といふべき、平家の末路から、鎌倉の執権政治にかけて、悲壮なる運命劇は、何故か東海道の河畔で演ぜられたのが多い、承久の乱に鎌倉に囚はれて、東下りの路すがら、菊川の西岸に宿つて、末路の哀歌を障子に書きつけた中御門中納言宗行卿もさうである。
— 小島烏水 『天竜川』 青空文庫
地平線と水平線とを別として、我が日本国において見らるべき、有らゆる斜線と曲線の中で、これこそ最大最高の線であろうと、いつも東海道を通行するたびに、汽車の窓から仰ぎ見て、そう思わないことはない。
— 小島烏水 『日本山岳景の特色』 青空文庫
ウィキペディア曖昧さ回避
海道(かいどう)は、東海の大道のこと。海沿いの道、或いは海沿いの道に沿った地方の呼称。 畿内から東に太平洋沿岸を進む道。後の東海道を常陸国まで行き、福島県浜通りを通って、仙台平野で山道(さんどう。後の東山道)と合一。さらに、松島丘陵を越えて山道と分かれ、三陸海岸を進む。 東海道。
新編常陸國誌における「海道」の解説文
- 新編常陸國誌の六十四行路では、海道が以下の様に解説されている。
- 海道は東海の大道である。伊賀国・伊勢国より東側の15箇国が東海道に属すことから、この間を往来する大道を海道と呼称する。古代石背国・石城国は陸奥国に属せず東海道に属しており、よってその後も石城・石瀬・菊多・岩崎等の4郡を海道四郡と呼称した。陸奥国にも海道の呼称があることは、日本後紀に「弘仁2年4月、陸奥海道の10驛を廃止し、さらに常陸の道に長有・高野の2驛を設置した」と在ることから確かである。海道の10驛というのは、常陸国の多珂郡奈古曾関を越えて菊多郡に入った付近から海道四郡と称する地域内の驛施設を指す。さらに「長有・高野の2驛を設置した」というのは、白河郡内の道で久慈郡に通じる道に関するものである。後三年の役の記録や清原氏系図に「海道小太郎成衡」という人物が書かれているが、「海道氏」は岩城岩崎付近によく見られる姓である。海道四郡と言われていたことは、旅宿問答や鎌倉大草子等に書かれている。また、白河結城家文書には、東海道宇多庄などという記述もよく見られるが、宇多庄は陸奥国内にある。
- 陸路 補 — 今の道路は、茨城郡水戸を起点とすると、東南に向かって下総河原代村に至る道を江戸海道と呼び、北方に向かって陸奧大垬村に至る道を棚倉海道と呼び、北に進んでやや東に向かって陸奧関田村に至る道を岩城相馬海道と呼んで、これらをすべて大道とする。また、水戸から西に向かって陸奧南郷に至る道を南郷海道と呼び、南郷海道の西にあって下野矢又村に至る道を那須海道と呼び、西方に向かってやや北に向かい下野藍田村(鮎田村)に至る道を茂木宇都宮海道と呼び、真西に向かって下総結城驛に至る道を結城海道と呼び、結城海道と江戸海道の中間にあって下総瀬戸井村に至る道を瀬戸井海道と呼び、南東に向かって下総飯沼村に至る道を飯沼海道と呼び、これらを中道と称す。
出典: 海道 — ウィキペディア / CC BY-SA 4.0