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寛元

かんげん
名詞
1
標準
Kangen era (1243.2.26-1247.2.28)
文例 · 用例
これを念仏往生の本願と申す也」 この消息は細々と経説を挙げてかなり長いものになっているが、実秀は法然からこの消息を恭敬頂戴して一向に念仏し、寛元四年往生の時矢張り奇瑞があったという。
中里介山 法然行伝 青空文庫
寛元年間に使を立てて申越される旨には、「わしも年頃念仏の行者として西方を願う心はねんごろである。
中里介山 法然行伝 青空文庫
賤者に対してこの称の見えるのは、管見の及ぶ限りでは鎌倉時代寛元二年三月の、奈良坂・清水坂両所の非人争議の文書である。
喜田貞吉 長吏名称考 青空文庫
これを要するに、サンカモノとは本来坂の者の義で、寛元二年の奈良坂非人文書(四巻一号四頁及び本号〔「民族と歴史」四巻三号〕一九頁)に見ゆる鎌倉時代の清水坂の非人の称であった。
――サンカモノは坂の者 サンカ者名義考 青空文庫
これすなわち既に「霊異記」に見ゆる浮浪人の長に当るもので、その勢力の往々盛んなるものの少からなんだ事は、寛元年間における清水坂及び奈良坂の坂の者たる非人法師等の闘争に関して、長吏法師の提出した訴状を見てもその一斑が窺われる(「民族と歴史」四巻三号四号を見よ)。
喜田貞吉 牛捨場馬捨場 青空文庫
清水坂の非人は祇園感神院に属し、奈良坂のは東大寺に属しておったから、ここにも南都北嶺争覇の影響が及んでいたものらしく、仁治、寛元年間に縄張争い等の事から軋轢を始めて、奈良坂の非人が清水坂の非人の或る者を味方につけ、清水坂を襲撃して、その長吏法師を殺したという事件が起った。
喜田貞吉 賤民概説 青空文庫
しかし般若寺坂を奈良坂と言い出したのもおそらく鎌倉時代以来のことで、仁治・寛元の頃に東大寺領奈良坂の非人と、京都清水坂の非人とが闘争に及んだことがあった。
喜田貞吉 俗法師考 青空文庫
寛元二年三月 日 右の文書は清水坂非人から奈良坂非人の不法を訴えたのに対して、奈良坂非人がそのしかるべからざる所以を陳じたもので、実状はいわゆる原被両造の申状を合わせみねばわからぬが、ともかく東大寺領の奈良坂非人というものが、仁治・寛元の際からここにあったことは明らかである。
喜田貞吉 俗法師考 青空文庫
作例 · 標準
寛元年間(1243年~1247年)は、北条氏の執権政治が続いた時代でした。
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この寺院の創建は、寛元の飢饉を乗り越えるために行われました。
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当時の記録によれば、寛元の改革は経済の安定に寄与したとされています。
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ウィキペディア

寛元 は、日本の元号の一つ。仁治の後、宝治の前。1243年から1247年までの期間を指す。この時代の天皇は後嵯峨天皇、後深草天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、藤原頼嗣。執権は北条経時、北条時頼。

出典: 寛元 — ウィキペディア / CC BY-SA 4.0