治承
じしょう異読 ちしょう
名詞
標準
Jishō era (1177.8.4-1181.7.14)
文例 · 用例
将門を訪ふた談は、時代ちがひの吾妻鏡の治承四年九月十九日の条に、昔話として出て居るので、「藤原秀郷、偽はりて門客に列す可きの由を称し、彼の陣に入るの処、将門喜悦の余り、梳けづるところの髪を肆らず、即ち烏帽子に引入れて之に謁す。
— 幸田露伴 『平将門』 青空文庫
山城、大和の強震は、その後寛治五年にも永長元年にも治承元年にもあって、東大寺に災してまた巨鐘を落した。
— 田中貢太郎 『日本天変地異記』 青空文庫
(大正九年十一月、『太陽』二六ノ一三)2 ラーマーヤナの譚をわが国で最も早く載せたは『宝物集』で治承の頃平康頼が筆すという。
— 猴に関する伝説 『十二支考』 青空文庫
別れるとき、俊寛は、「都に帰ったら、俊寛は治承三年に島で果てたという風聞を決して打ち消さないようにしてくれ。
— 菊池寛 『俊寛』 青空文庫
------------------------------------------------------- 第一 やがて來む壽永の秋の哀れ、治承の春の樂みに知る由もなく、六歳の後に昔の夢を辿りて、直衣の袖を絞りし人々には、今宵の歡曾も中々に忘られぬ思寢の涙なるべし。
— 高山樗牛 『瀧口入道』 青空文庫
時は治承の春、世は平家の盛、そも天喜、康平以來九十年の春秋、都も鄙も打ち靡きし源氏の白旗も、保元、平治の二度の戰を都の名殘に、脆くも武門の哀れを東海の隅に留めしより、六十餘州に到らぬ隈なき平家の權勢、驕るもの久しからずとは驕れるもの如何で知るべき。
— 高山樗牛 『瀧口入道』 青空文庫
第十四 治承三年五月、熊野參籠の此方、日に増し重る小松殿の病氣。
— 高山樗牛 『瀧口入道』 青空文庫
第二十五 其年も事なく暮れて、明くれば治承四年、淨海が暴虐は猶ほ已まず、殿とは名のみ、蜘手結びこめぬばかりの鳥羽殿には、去年より法皇を押籠め奉るさへあるに、明君の聞え高き主上をば、何の恙もお在さぬに、是非なくおろし參らせ、清盛の女が腹に生れし春宮の今年僅に三歳なるに御位を讓らせ給ふ。
— 高山樗牛 『瀧口入道』 青空文庫
作例 · 標準
治承の乱は、源平合戦の初期における重要な出来事である。
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彼は、治承年間(1177年~1181年)の歴史について研究している。
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「治承の世相を描いた当時の絵巻物は、貴重な史料となっている。」
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ウィキペディア
治承(じしょう、 は、日本の元号の一つ。安元の後、養和の前。1177年から1181年までの期間を指す。この時代の天皇は高倉天皇、安徳天皇。
出典: 治承 — ウィキペディア / CC BY-SA 4.0