文亀
ぶんき
名詞
標準
Bunki era (1501.2.29-1504.2.30)
文例 · 用例
文亀になってその元年十二月越後に、永正になってその七年八月に、摂津、河内、山城、大和に大地震があって、摂津には海嘯の難があった。
— 田中貢太郎 『日本天変地異記』 青空文庫
播磨守泰親は陰陽博士安倍晴明が六代の孫で、天文亀卜算術の長として日本国に隠れのない名家である。
— 岡本綺堂 『玉藻の前』 青空文庫
神仏分離史料に拠ると、文亀の頃に月観道満なる人が頽廃した社殿の復興造営を思い立ち、天文二年に竣工した。
— 木暮理太郎 『二、三の山名について』 青空文庫
阿古義物では豊国と衝突して、版元|文亀堂の扱いでやっと仲直りし、この同じ文化七年に同店から出した「一|対男時花歌川」で再び作者三馬と画工豊国とを組ませて、納めることができたのに、またここに今度は春亭とぶつかってしまったのである。
— 林不忘 『仇討たれ戯作』 青空文庫
ところが文亀二年になると、西面の築地新造の際西の方があき地であったので、二間ほどそのあき地へ押し出したことが日記に見え、また南の方は不遠院宮と地続きであったがその不遠院宮でも同様に西の方へはみ出されたと日記に記されてある。
— 原勝郎 『東山時代における一縉紳の生活』 青空文庫
文亀二年になって売物に出た小座敷を買入れて、これを邸内に建て直したとあるのは、これは子なる公条がこの年十六歳でその春には右中将に転じたほどであるから、だんだん家が手狭になったによっての故であろう。
— 原勝郎 『東山時代における一縉紳の生活』 青空文庫
南隣に住まわれた不遠院宮は文亀四年に薨ぜられたが、その後はその邸もあるいは実隆の差配に属したのかも知れぬ。
— 原勝郎 『東山時代における一縉紳の生活』 青空文庫
ほかに辻某という有力家もあったらしく、その甥弥次郎という者が文亀三年に始めて被官として来たことが見える。
— 原勝郎 『東山時代における一縉紳の生活』 青空文庫
作例 · 標準
この仏像は文亀元年に作られたという銘文が残っており、室町時代後期の貴重な歴史的資料となっている。
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文亀年間に起きた大規模な一揆の記録が、地元の古文書から新たに発見されたそうです。
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戦国時代の幕開けとも言える文亀の頃、この地域を治めていたのはある小さな国人領主だった。
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ウィキペディア
文亀(ぶんき、 は、日本の元号の一つ。明応の後、永正の前。1501年から1504年までの期間を指す。この時代の天皇は後柏原天皇。室町幕府将軍は足利義澄。
出典: 文亀 — ウィキペディア / CC BY-SA 4.0