魏志
ぎし
名詞
標準
the history of Wei
文例 · 用例
然るに魏志本文には、益州の牧劉焉魯(張魯)を以て督義司馬と爲し、別部司馬張脩とともに兵を將ゐて漢中の太守蘇固を撃たしむ、魯遂に脩を襲ひて之を殺し、其衆を奪ふ、とある。
— 幸田露伴 『道教に就いて』 青空文庫
とあるを、若し日本とせば百餘國とするは疑ふべしといひ、又魏志の在帶方東南海中。
— 内藤湖南 『卑彌呼考』 青空文庫
同時村瀬栲亭が藝苑日渉に國號を論じたる條ありて、猶ほ魏志の女王は神功皇后を指すに似たりといへる程なるに、本居氏の説は實に破天荒の思ありたれば、此より後の史家は皆此説によりて、次第に潤色を加へたるが如し。
— 内藤湖南 『卑彌呼考』 青空文庫
到其北岸狗邪韓國 同じ魏志の弁辰傳中に弁辰狗邪國あり、吉田東伍氏は之を韓史の伽耶、又駕洛、即ち今の金海に當てたり。
— 内藤湖南 『卑彌呼考』 青空文庫
魏志の韓傳に云く、韓在帶方之南。
— 内藤湖南 『卑彌呼考』 青空文庫
隋書及び北史に倭國都於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也といへり。
— 内藤湖南 『卑彌呼考』 青空文庫
されば梁代に當りて、大和朝廷の存在は明らかに彼國人に知られたるは勿論なるが、梁書は當時の倭王を以て魏志の倭王の後として疑ふ所なし。
— 内藤湖南 『卑彌呼考』 青空文庫
難升米 雜誌「文」第一卷第十二號、橘良平氏の日本紀元考概略に「垂仁天皇ノ末年ニ田道間守、常世(遠國ノ稱)ノ國ニ使シ、景行天皇ノ元年ニ至テ歸朝セリ、魏志此事ヲ記シテ曰ク、景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻。
— 内藤湖南 『卑彌呼考』 青空文庫