東海道
とうかいどう
名詞頻度ランク #20138 · 青空 1001 例
標準
Tōkaidō (Edo-period Edo-Kyoto highway)
文例 · 用例
父が十三の時父の父が或失敗をして逃げ出して行つたために父はその時東海道を一人で東京迄出た。
— 中原中也 『その頃の生活』 青空文庫
何という題であったか忘れたが、自分が九歳の頃東海道を人力車で西下したときに、自分の乗っていた車の車夫が檜笠を冠っていて、その影が地上に印しながら走って行くのを椎茸のようだと感じたと見えてその車夫を椎茸と命名したという話を書いた。
— 寺田寅彦 『明治三十二年頃』 青空文庫
九つの歳父母に従うて東海道を下りし時こゝの水楼に※魚の塩焼の骨と肉とが面白く離るゝを面白がりし事など思い出してはこの頃の吾なつかしく、父母の老い給いぬる今悲しかり。
— 寺田寅彦 『東上記』 青空文庫
勿論その頃はまだ東海道鉄道は全通しておらず、どうしても横浜から神戸まで船に乗らねばならぬ。
— 寺田寅彦 『車』 青空文庫
そのころは既に広重の出世作、『東海道五十三次』(保永堂板)は完成され、葛飾北斎の『富嶽三十六景』が、絵草紙屋の店頭に人目を驚かしていたのであるが、その地図にある定火消屋敷で、広重が生れ、西の丸のお膝下で、名城と名山の感化を受けていたのだと思うと、晩年に富士三十六景の集作があったのも、偶然でない。
— 小島烏水 『不尽の高根』 青空文庫
日本の歴史の恐怖時代といふべき、平家の末路から、鎌倉の執権政治にかけて、悲壮なる運命劇は、何故か東海道の河畔で演ぜられたのが多い、承久の乱に鎌倉に囚はれて、東下りの路すがら、菊川の西岸に宿つて、末路の哀歌を障子に書きつけた中御門中納言宗行卿もさうである。
— 小島烏水 『天竜川』 青空文庫
地平線と水平線とを別として、我が日本国において見らるべき、有らゆる斜線と曲線の中で、これこそ最大最高の線であろうと、いつも東海道を通行するたびに、汽車の窓から仰ぎ見て、そう思わないことはない。
— 小島烏水 『日本山岳景の特色』 青空文庫
私が主人に連れられて東海道を始めてみたのは結婚の相談が纏まって間もない頃である。
— 岡本かの子 『東海道五十三次』 青空文庫
作例 · 標準
昔の人は、東海道を歩いて旅をしました。
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広重の描いた東海道五十三次は、今も多くの人々を魅了しています。
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この辺りは、かつて東海道が通っていた場所で、宿場の面影が残っています。
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標準
Tōkaidō (under the ritsuryō system; one of the seven districts of ancient Japan)
作例 · 標準
律令制下の日本は、五畿七道の一つとして東海道が設けられていた。
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当時の東海道は、都と東国を結ぶ重要な幹線道路でした。
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歴史の授業で、律令国家における東海道の役割について学んだ。
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ウィキペディア
東海道(とうかいどう、うみつみち)は、五畿七道の一つ。本州太平洋側の中部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から近世)を指す。
出典: 東海道 — ウィキペディア / CC BY-SA 4.0