正慶
しょうきょう異読 しょうけい
名詞
標準
Shōkyō era (of the Northern Court) (1332.4.28-1333.5.?)
文例 · 用例
ゆきといふのが本名かどうか、後に三好氏が祖先だからとて、三好ゆきとなり、剃髮して正慶尼となつたが、美人で侠氣があり、才藻ゆたかに學問もあつて、しかも金持ちの娘で腕が立つといふのだから、おあつらへむきでもあり、また驕慢でもあつたらう。
— 長谷川時雨 『凡愚姐御考』 青空文庫
私どもの長く最親しい同伴者西角井正慶君の新著「神楽研究」は劃期的の良書である。
— ――序説として―― 『唱導文学』 青空文庫
新しい運動の代表は曲直瀬正慶(道三:1507-1594)および彼の弟子の丹波であり、彼らは熱と湿が病気の最も重要な原因とし、治療を発汗剤で開始し、尿および大便の検査に重点を置いた。
— History of Medicine 『医学の歴史』 青空文庫
夏隣り 都では、さきに幕府が立てた新帝(光厳帝)の御即位をいそぐと共に、年号も、この四月二十八日をもって、 正慶 と、改元していた。
— 世の辻の帖 『私本太平記』 青空文庫
けれど新しい年の紀号も、 元弘三年 正慶二年(北方) と、敵味方によって称びわけられるという変則な地上では、もとより四海兄弟などと唱えて祝福し合う初春景色などはどこにもない。
— 八荒帖 『私本太平記』 青空文庫
四天王寺の大鳥居の左の柱には、たれの業か墨匂わしく「花咲かぬ老い木のさくら朽ちぬとも、その名は苔の下にかくれじ」とみえ、わきには、武蔵ノ国の住人、人見四郎|恩阿、生年七十三歳正慶二年(北朝年号)二月二日、赤坂城へ向つて、武恩に報ぜんがため、討死|仕つり畢んぬ という遺書があった。
— 千早帖 『私本太平記』 青空文庫
そしてまた、右方の柱にも「待てしばし子を思ふ闇に迷ふらん、六つのちまたの道しるべせん」と書いて、同筆で、相模ノ国の住人本間九郎|資貞が子、源内兵衛資忠、生年十八歳正慶二年|仲春二日父が死骸を枕にして同じ戦場にて命をとどめ畢んぬ と、書きのこされた文字があった。
— 千早帖 『私本太平記』 青空文庫
先ノ朝ニテ仮称セシ「正慶」ノ年号ハ停止スル などの発布はすましておられたが、なおさしあたって、楠木正成、名和長年、足利高氏、新田義貞、赤松円心、千種忠顕、北畠親房、等々、あまたな公卿武士らの殊勲者にたいしては、それの論功行賞も、目前の懸案として、さっそく公布のはこびをつけねばならない。
— 建武らくがき帖 『私本太平記』 青空文庫
作例 · 標準
正慶二年に足利尊氏が六波羅探題を攻め落としたとされる。
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この古文書には正慶の年号が記されており、歴史的価値が高い。
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正慶は北朝側の元号であり、南朝では元弘が用いられていた。
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ウィキペディア
正慶(しょうきょう、 は、日本の元号の一つ。持明院統 方で使用された。元徳の後、元弘の前。正慶元年/元弘2年 の4月28日 から正慶2年/元弘3年 の5月25日 までの期間を指す。この時代の天皇は光厳天皇であるが、先帝の後醍醐天皇は皇位継承を否定していた。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条守時。
出典: 正慶 — ウィキペディア / CC BY-SA 4.0