懐裡
ふところり
名詞
標準
文例 · 用例
「いや、それはともかくも、話説をせんけりゃ解らん」 馭者は懐裡を捜りて、油紙の蒲簀莨入れを取り出だし、いそがわしく一服を喫して、直ちに物語の端を発かんとせり。
— 泉鏡花 『義血侠血』 青空文庫
貫一はこの五年間の家族を迫めての一人も余さず、家倉と共に焚尽されて一夜の中に儚くなり了れるに会ひては、おのれが懐裡の物の故無く消失せにけんやうにも頼み難く覚えて、かくては我身の上の今宵|如何に成りなんをも料られざるをと、無常の愁は頻に腸に沁むなりけり。
— 尾崎紅葉 『金色夜叉』 青空文庫
風に対しては戸を造り、雨に対しては屋根を葺き、雷に対しては避雷柱を造る、斯くして人間は出来得る丈は物質的の権を以て自然の力に当るべしと雖、かくするは限ある権をもて限なき力を撃つの業にして、到底限ある権を投げやりて、自然といふものゝ懐裡に躍り入るの妙なるには如かざるなり。
— 北村透谷 『人生に相渉るとは何の謂ぞ』 青空文庫
サブライムとは形の判断にあらずして、想の領分なり、即ち前に云ひたる池をめぐりてよもすがらせる如き人の、一躍して自然の懐裡に入りたる後に、彼処にて見出すべき朋友を言ふなり。
— 北村透谷 『人生に相渉るとは何の謂ぞ』 青空文庫
「ハムレツト」の幽霊は実に此観念、この畏怖より、シヱークスピアの懐裡に産れたり。
— 北村透谷 『他界に対する観念』 青空文庫
蓋し理想詩人の性として必らず人生を其或る一面相より観察する者なる故に、道也が「奇男児」を作りたる詩人の懐裡に宿りたるは無理ならぬ事なり。
— 北村透谷 『「伽羅枕」及び「新葉末集」』 青空文庫
「善さん、しッかりなさいよ、お紙入れなんかお忘れなすッて」と、お熊が笑いながら出した紙入れを、善吉は苦笑いをしながら胸もあらわな寝衣の懐裡へ押し込んだ。
— 広津柳浪 『今戸心中』 青空文庫
「吉里さん、頼みがあるんですが」と、善吉は懐裡の紙入れを火鉢の縁に置き、「お前さんに笑われるかも知れないが、私しゃね、何だか去るのが否になッたから、今日は夕刻まで遊ばせておいて下さいな。
— 広津柳浪 『今戸心中』 青空文庫