薨後
こうご
名詞
標準
文例 · 用例
其薨後、其宮の舎人等の吟じたと思うてよい二十三首の挽歌は――人麻呂の代作らしい――此島の宮と、墓所|檀の岡との間を往来して、仕へる期間も終りに近づいた頃に謡うた鎮魂歌らしいが、島の宮の池の放ち鳥を三首まで詠じてゐる。
— 折口信夫 『万葉集研究』 青空文庫
これは清盛の薨後その子宗盛が、秀衡をして頼朝の背後を襲わしめんとの計策に出でたものであるが、朝廷にとっては非常な果断であったに相違ない。
— 喜田貞吉 『奥州における御館藤原氏』 青空文庫
そしてその東の間には、御父用明天皇の御為に敬造せられた東方浄土の教主薬師如来の尊像を安置し、西の間は依然太子の御居室として遺されてあった所へ、太子の薨後さらにその御為に敬造せられた釈迦如来の尊像を安置し、ここに両本尊安置の均斉を見るに至ったものであろう。
— 喜田貞吉 『法隆寺再建非再建論の回顧』 青空文庫
「公の薨後三百年、ことし、京都阿弥陀峯なる奥津城どころを修め、追弔紀念の祭典をあげたり、いささか公が御霊を慰むるものあらむか。
— 蒲原有明 『松浦あがた』 青空文庫
但し隆國薨後の寛治頃の源義家阿部宗任などの記事が交つてゐる處から推して、後人の補筆もあることを拒否し得ない。
— 和田萬吉 『父兄の方々に』 青空文庫
定家の薨後は事実上歌壇の棟梁であったけれども、定家に抑えられていた反対勢力が少しは動き出した形があって、平穏とばかりはいえなかった。
— 風巻景次郎 『中世の文学伝統』 青空文庫
ただ知家は父顕家に早く死別して定家に学んだため十二首採られたが、定家の薨後為家に反対した。
— 風巻景次郎 『中世の文学伝統』 青空文庫