承久の乱
じょうきゅうのらん
名詞
標準
Jōkyū War (1221)
文例 · 用例
日本の歴史の恐怖時代といふべき、平家の末路から、鎌倉の執権政治にかけて、悲壮なる運命劇は、何故か東海道の河畔で演ぜられたのが多い、承久の乱に鎌倉に囚はれて、東下りの路すがら、菊川の西岸に宿つて、末路の哀歌を障子に書きつけた中御門中納言宗行卿もさうである。
— 小島烏水 『天竜川』 青空文庫
承久の乱後土佐へ遷御せられた後土御門上皇も、この山中で大雪に苦しまれたと云うことが「承久記」の中にも見えている。
— 田中貢太郎 『鍛冶の母』 青空文庫
権太夫の長男太郎|長俊と次子次郎|長世とは承久の乱に京方の供をなして討死し、三子四郎|兵衛尉宗俊は同じ合戦に関東方に加った。
— 永井荷風 『下谷叢話』 青空文庫
公家の階級は、承久の乱後、反抗の力を失って、好んで武士に媚びた。
— 和辻哲郎 『日本精神史研究』 青空文庫
毬杖冠者(毬杖の好きな天皇)よ、そのうち、そなたを、わしのところにきっと迎え取るぞよ」 この言葉どおり、後鳥羽院は、承久の乱には隠岐に流されたのであった。
— 第十二巻 『現代語訳 平家物語』 青空文庫
自分等はその起原を平家の滅亡、承久の乱等に伴なう多くの大名の没落が、鎌倉方の武家に多分の新恩を加給した時代に初まっていると思う。
— 柳田国男 『家の話』 青空文庫
承久の乱にひとしくふしあわせな運命におあいなされた後鳥羽、土御門、順徳の三帝を祭神として、いまはそこに官幣中社が建っているのだが、やしろのたてものや境内の風致などはりっぱな神社仏閣に富むこの地方としてはべつにとりたててしるすほどでもない。
— 谷崎潤一郎 『蘆刈』 青空文庫
平家の頃にも、承久の乱にも、帝王の受難は、二、三にとどまらなかったが、なお幾らかの畏れと、いたわりや礼もあった。
— 帝獄帖 『私本太平記』 青空文庫
作例 · 標準
承久の乱において、北条政子は御家人たちを前に力強い演説を行い、その結束を固めたという。
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承久の乱の後、朝廷を監視するために京都に六波羅探題が設置された。
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日本史の試験に向けて、承久の乱が起きた背景とその後の社会の変化について復習した。
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ウィキペディア
承久の乱(じょうきゅうのらん)は、1221年(承久3年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権である北条義時に対して起こした、貴族政権を率いる後鳥羽上皇と鎌倉幕府の対立抗争。鎌倉幕府が勝利を飾り、鎌倉時代初期の幕府と貴族政権や治天の間に存在した緊張・融和などの諸関係がもたらす政治史の一つの帰結であったとされる。争いの呼称は承久の変、または承久合戦ともいう。
出典: 承久の乱 — ウィキペディア / CC BY-SA 4.0