寛平
かんぴょう異読 かんびょう・かんぺい・かんべい
名詞
標準
Kanpyō era (889.4.27-898.4.26)
文例 · 用例
されば、宇多天皇の寛平六年に、菅原道真が遣唐大使に任ぜらるゝや、道真は、唐が既に衰世であり、危険なる航海を冒してまで、彼の文化を輸入する必要がないことを奏上して、遣唐使は爾後長く廃止になつた。
— 菊池寛 『二千六百年史抄』 青空文庫
竜樹菩薩は寛平中藤原|佐世撰『日本国現在書目録』に、『竜樹菩薩和香方』一巻と出で、香道の祖と尊ばる。
— 馬に関する民俗と伝説 『十二支考』 青空文庫
親房の議論によると、寛平の宇多法皇の御誡にも天皇の學問はひどく深くする必要はない、群書治要といふ本があるがそれで澤山だといふことが言はれてある。
— 内藤湖南 『日本文化の獨立』 青空文庫
此書目の由來は、弘仁の頃からあつた冷然院といふ藏書の處が燒けたので――此時冷然の然の字が火に從ふので燒けたといつて冷泉院といふ水に從ふ字に改めた――其の後復た書籍を集めた時、今度集めた藏書目録を作つて置く必要があると云ふので作つたのが此の日本國現在書目で、宇多天皇の寛平頃に出來たものらしい。
— 内藤湖南 『平安朝時代の漢文學』 青空文庫
遣唐使派遣に終止符を打ったのは菅原道真であって、その航海の困難ということも理由の一つではあったが、もっと重大な原因は、隋、唐と国交を重ぬること推古天皇様十五年より宇多天皇様寛平六年|迄二百八十八年に及びこの長い間に支那大陸の文化の尽くを日本は摂取し、最早彼に学ぶべきものが無いというのが夫れであった。
— 国枝史郎 『日本上古の硬外交』 青空文庫
「寛平三年正月十三日、藤原基経歿す」 とその頁には忌日もあった、新暦なら季節も丁度今ごろで父の忌日より十日先だと矢代は思い、なお基経のむすめの穏子の方の忌日も調べてみると、これも天暦八年、正月四日となっていた。
— 横光利一 『旅愁』 青空文庫
宇多天皇の寛平七年(西暦八九五)に遂に遣唐使を廢止したが、これには唐の衰亂といふ原因もあらうが、遣唐使廢止の發議者たる菅原道眞の主張に、臣等伏檢舊記、度度使等、或有渡海不堪命者。
— 桑原隲蔵 『大師の入唐』 青空文庫
寛平歌合せの如く「上御製」など清書せられた例もあるが、次第に、女房歌合せの慣例と、尊貴の御名を忌む風習とからして、女房名を署する様になつたのである。
— 後期王朝文学史 『女房文学から隠者文学へ』 青空文庫
作例 · 標準
宇多天皇から醍醐天皇へと譲位が行われた寛平の治は、親政の模範とされた。
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寛平年間に編纂された和歌集には、当時の宮廷文化の優雅さが色濃く反映されている。
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歴史の教科書を捲ると、菅原道真が活躍した時代として寛平の名が登場する。
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ウィキペディア
寛平 は、日本の元号の一つ。仁和の後、昌泰の前。889年から898年までの期間を指す。この時代の天皇は宇多天皇、醍醐天皇。
出典: 寛平 — ウィキペディア / CC BY-SA 4.0