久寿
きゅうじゅ
名詞
標準
Kyūju era (1154.10.28-1156.4.27)
文例 · 用例
わたしの壁の写真の中には閃く海神鉾に翻へる久寿玉から五彩のテープが舞ひ乱れ、翼の音も軽やかな数羽の鳩が放たれた瞬間に堂々たる巨体を、あはや麗かな海上へ乗り入らうとする処女艦の英姿があつた。
— 牧野信一 『緑の軍港』 青空文庫
久寿玉のやうな包みは彼の胸に命中して、首尾好く両腕に抱へられたが、何処まで遡つても渡れさうな気色もなく、奔湍は岩に砕けて、目くるめくばかりの水煙りをあげてゐた。
— 牧野信一 『繰舟で往く家』 青空文庫
久寿二年二月、義賢の悪源太義平に戮せらるゝや、義平、彼の禍をなさむ事を恐れ、畠山庄司重能をして、彼を求めしむる、急也。
— 芥川龍之介 『木曾義仲論(東京府立第三中学校学友会誌)』 青空文庫
牧野家家付の娘――久寿は、すなわち私の母である。
— 第一部 牧野富太郎自叙伝 『牧野富太郎自叙伝』 青空文庫
佐平と久寿の間にたった一人の子として私は生まれた。
— 第一部 牧野富太郎自叙伝 『牧野富太郎自叙伝』 青空文庫
やがてしかし、顕輔は久寿二年に六十六歳で世を去り、子の清輔も父が『詞花集』を撰んだので、自分も『続詞花和歌集』を撰んだほどの人だが、勅撰の仰せを蒙ることなくて、治承元年に七十四歳で世を去った。
— 風巻景次郎 『中世の文学伝統』 青空文庫
為隆は定家出生の足かけ二十年前、康治二年に出家して寂超といい、その次の兄|頼業は近衛天皇の蔵人であったが、久寿二年、帝崩御のとき出家して寂然といい、長兄は為業といって、『尊卑分脈』に『栄華物語』の作者とされている人、最もおくれて永万元年頃、定家四歳位のときに出家したらしい。
— 風巻景次郎 『中世の文学伝統』 青空文庫
『千載集』の神祇部に、久寿二年の大嘗会の風俗歌に、悠紀方として詠進した歌は、近江の木綿園を地名として詠じている。
— 柳田国男 『木綿以前の事』 青空文庫
作例 · 標準
久寿年間には、度重なる飢饉により多くの人々が苦しんだ。
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この古文書には、久寿時代の社会情勢が克明に記されている。
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久寿の治世は短かったが、その間にいくつかの重要な改革が行われた。
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ウィキペディア
久寿(きゅうじゅ、 は、日本の元号の一つ。仁平の後、保元の前。1154年から1156年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇、後白河天皇。
出典: 久寿 — ウィキペディア / CC BY-SA 4.0