寛正
かんしょう
名詞
標準
Kanshō era (1460.12.21-1466.2.28)
文例 · 用例
大体彼は建築道楽で、寛正の大飢饉に際し、死屍京の賀茂川を埋むる程なのに、新邸の造営に余念がない。
— 菊池寛 『応仁の乱』 青空文庫
彼の豪奢の絶頂は、寛正六年三月の花頂山の花見宴であろう。
— 菊池寛 『応仁の乱』 青空文庫
寛正六年には義政が切取つた。
— 大正七(一九一八)年 『茶話』 青空文庫
「寛正六年のことである。
— 国枝史郎 『神州纐纈城』 青空文庫
それは寛正の頃、東国|大に旱魃、太田道灌江戸城にあって憂い、この杉の森鎮座の神にお祷りをした験があって雨降り、百穀大に登る。
— 続旧聞日本橋・その三 『鬼眼鏡と鉄屑ぶとり』 青空文庫
しかし、その三喜が、こんなところへ引込んで、浦島気取りで釣をしていたということも、はじめて承りましたよ」「左様でございますな、古書を調べてみますというと、三喜は、寛正の六年に武州川越に生れたとあります。
— めいろの巻 『大菩薩峠』 青空文庫
その両国の屍体には、いかなる特志の人の仕業にや、一人一人に廻向の辞を書いた紙片を手向けあるのには、かの寛正二年の京都数万の餓死者について、城北の一僧が一つ一つ小卒塔婆を屍骸の上に置いたという『碧山日録』の記事も思い合されて、言い知れず床しく思われた。
— 喜田貞吉 『震災日誌』 青空文庫
『山城名勝志』引「季瓊日録」(寛正五年)によれば、六月十四日の祇園の祭礼に、北畠から跳戈を出し、歌舞して御所へ参るのが旧例だとあって、此の徒が遊芸に由って御霊会の神事に仕えていたことがわかる。
— 喜田貞吉 『俗法師考』 青空文庫
作例 · 標準
寛正の飢饉は、多くの農民を苦しめたと記録されている。
幻辭AI · gemini-2.5-flash
この古文書は、寛正年間に書かれたものだ。
幻辭AI · gemini-2.5-flash
寛正六年、応仁の乱の前触れとなる出来事が起きた。
幻辭AI · gemini-2.5-flash
ウィキペディア
寛正 は、日本の元号の一つ。長禄の後、文正の前。1460年から1466年までの期間を指す。この時代の天皇は後花園天皇、後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義政。
出典: 寛正 — ウィキペディア / CC BY-SA 4.0