嘉禄
かろく
名詞
標準
Karoku era (1225.4.20-1227.12.10)
文例 · 用例
四十二 法然が亡くなってから、順徳院の建保年間、後堀川院の貞応嘉禄年間、四条院の天福延応年間などたびたび一向専修の宗旨を停止の勅命を下されたけれども、厳制すたれ易く興行止まりがたく、念仏の声は愈々四海に溢れた。
— 中里介山 『法然行伝』 青空文庫
それが勅許があったので、嘉禄三年六月二十二日山門から人をやって墓を破そうとする、その時に六波羅の修理亮平時氏は、家来を伴れて馳せ向い、「仮令勅許があるにしても、武家にお伝えあって、それから事をなさるがよいのに、みだりに左様の乱暴をなさるのはよろしくない」というて止めたけれども承知をしない。
— 中里介山 『法然行伝』 青空文庫
石垣の金光坊は浄土の奥に至っているということを法然から賞められていた人であるが、嘉禄三年に法然の門弟と国々へ流された時|陸奥の国へ下ったが遂にそこで亡くなられたから、その行状が広く世に知られていない。
— 中里介山 『法然行伝』 青空文庫
藤原定家の日記「明月記」嘉禄元年三月十二日条に、南京下人説云、奈良北山濫僧長吏法師(非其病、容儀優美法師)仮例人姿、発艶言、掠‐取尋常家々女子、已及三人之間、漸有事聞、欲焼‐払其住所之間、欲迯去。
— 喜田貞吉 『濫僧考補遺』 青空文庫
奈良の北山非人の事は、「民族と歴史」四巻一号(大正九年七月発行)に、寛元二年及び元亨四年の文書を引いて、いささか説明しておいたところであったが、その寛元二年を距る十九年前の嘉禄元年の日記に、その非人法師を明らかに濫僧と云ってあるのは面白い。
— 喜田貞吉 『濫僧考補遺』 青空文庫
彼は建久九年に生れ、承久乱の年には二十四歳で従四位上左権中将であったが、二十八(嘉禄元年)頭中将、二十九(嘉禄二年)従三位参議兼侍従、三十九(嘉禎二年)従二位権中納言に昇り、四十四歳(仁治二年)のときすでに正二位権大納言となった。
— 風巻景次郎 『中世の文学伝統』 青空文庫
この日は、嘉禄元年の四月の半ばであった。
— 吉川英治 『親鸞』 青空文庫
行乞は身心晴朗でなければならない、足もかろく気もかろくなければならない、そしておちつきがなければならない、すなほさがなければならない。
— 伊佐行乞 『行乞記』 青空文庫
作例 · 標準
嘉禄の法難において、法然の門弟たちは鎌倉幕府による厳しい弾圧を受け、各地へ流罪となった。
幻辭AI · gemini-3-flash-preview
歴史の授業で「嘉禄」という元号が出てきたが、鎌倉時代のどのあたりだったか思い出せず、慌てて教科書を読み返した。
幻辭AI · gemini-3-flash-preview
「嘉禄二年の銘があるこの仏像は、当時の彫刻様式を色濃く残しています」博物館のガイドが静かに解説を始めた。
幻辭AI · gemini-3-flash-preview
ウィキペディア
嘉禄(かろく、 は、日本の元号の一つ。元仁の後、安貞の前。1225年から1227年までの期間を指す。この時代の天皇は後堀河天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。
出典: 嘉禄 — ウィキペディア / CC BY-SA 4.0